house と home


或いは、演技と芝居
演奏技術と音楽演奏

 

『演技』が上手いからといって『芝居』が上手いかと言うと、なんかちょっと違う人いるよなぁ。同じように、楽器の演奏は上手い(技術は高い)けどイイ『演奏』をするかと言うと、これまたイコールでない。「ふぅん、ハイお上手お上手」で終わる。逆に、歌は大して上手くないんだが、染みる演奏をする歌手もいる。


『演』って何? 上手いって何?


勿論技術は高い方がイイ。でもそれだけでは『演奏』するスタートラインに立っただけで、良い音を出してもノーミスで奏でても、棒読みだったらそれは『演奏』したことにはならない。音を出しただけ、譜面をなぞっただけ。結局最後は構成力が物を言い、それが観衆聴衆にどのように伝わるか(伝えられるか)に掛かってくるのかと思う。

未だに引っ掛かっていて自分の中で解決していない、ある先生の言葉。


自分のピアノは『歌ってる』らしい。

高校生の頃にお世話になっていたピアノの先生に言われた言葉だが、その先生も大音(大阪音楽大学)卒の声楽の方で、KAWAI系列のピアノ講師をされていた。自分は4歳からずっとKAWAI系列の先生なんだが、それまではほぼピアノ科卒の先生に育てられた。勘がイイとは言われていたが『歌ってる』と言われたのは初めてで、多分先生は褒め言葉として言われたんだと思うが、未だに自分の『歌ってるピアノ』の真意がどういうものか掴みきれていない。

とは言え当時「あ、多分自分はピアノ科に行くのは向いてないねんな」と感じたらしい。確かにその頃既に進路を歌科にシフトしかけていたので、合点がいったと言うか拍車が掛かったと言うか、そんな感じではあった。

昔から、歌の伴奏をしたら歌いやすいとは確かに言われてきた。まぁどこでどう緩急付けるかブレスするか、言われんでも解るから当然でせう。逆に、昔の相方(ピアニスト)には「そこで溜めるの歌科のやり方やけど、ピアノ科はそこスッと行きたいねん。そこで溜めたらなんか気持ち悪い」とかなり抵抗された。それでもこれは歌曲作品で自分が主やから歌科の作り方に従ってくれとは言ったが、彼女曰く、歌科の作り方はどうも(雰囲気が)濃くなるらしい。ロシアなんかはその最たる例で、師匠にも「これは演歌なんだよ。血で歌うんだよ。濃すぎると思うほど濃く歌っても、足りないもんなんだよ」と言われその血が今も色濃く流れている。

『歌ってるピアノ』ってそういう事なんかな。

素敵なhouse(家屋)に住んでるからとて素敵なhome(家庭)かと言うと、それは必ずしもイコールでないのと同様。go home とは言っても go house と言わないのは、帰るべき目的地は『建物』ではなく『おうち=家庭(帰るべき場所)』というワケ。イヌに「go house」というのは、まさに『建物=小屋』に帰れという事。

こういう事を考えるとまた触れたくなる『攻殻機動隊』。一貫してその根底に流れるテーマ「個とは何か / 自分自身を定義するものは何か」。

 

閑話休題。
結局最後に行きつく所は、『自分が何を求め、それに対してどうするか、どうしたいか』。
当然、基本は踏んだ上での話ですが。


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