瀧廉太郎と「花の宴」
発表と同時に名作との賞賛の声多く聞こえた瀧廉太郎の歌曲『荒城月』であるが、当初から唯一批判的に指摘されていたのが歌詞「花の宴」のEis音(ミ#:唱歌3小節目4拍目)の扱いであった。批評家はこぞって「西洋くささが抜けきらぬ」とか「日本らしい旋律の中に違和感を覚える」など、この1点に限ってかなり集中砲火を浴びせている(本人は全く意に介さなかったそうであるが)。後世には、三浦環女史がヨーロッパで歌うために山田耕作に編曲を依頼した際、彼もやはり「このまま西洋で歌うとハンガリーの旋律と勘違いされると思い、日本の歌であることを強調したくて敢えて#を取った」(但し山田版は曲そのものが移調されてd:(ニ短調)となっているので、この音は結果G音(ソ)となる)と語るように、多くの日本人も山田版に”日本らしさ”を感じ取り、この旋律で長く歌い継がれてきた背景がある。自身も演奏会で、よく瀧原作と山田編曲版を双方歌い聴き比べてもらっているが、確かに山田版の方がしっくりくる感はある。
*余談だが、山田版(昭和2年)に異を唱えた本居長世が、瀧原曲に忠実に伴奏を付けたものが昭和5年に出されている。発表当初、瀧の作品は旋律だけであった。面白い事に、山田版は「花の宴」の後の和声がⅠのままであるが、瀧の旋律で伴奏を付けた本居版は、小節の1・2拍がⅠ、3・4拍がⅤ6となっている。
然しながらこの旋律に、果たして瀧は本当に”日本らしさ”を求めていただろうか。勿論題材として土井晩翠の名歌を選んだことは、満を持しての日本音楽たらんとの意気込みがあったであろう。しかし単に「西洋くささが抜けき」っていなかった訳ではなく、寧ろ敢えて「西洋くささ」を取り込んだのではなかろうかと、最近ふと感じたのである。
瀧は、東京音楽学校の前身となる音楽取調掛創設と同年、明治12年(1879年)の生まれである。当時の日本は、西洋音楽をやっと取り入れ勉強を始めてまだ日が浅く、「日本人による日本人のための日本人の西洋音楽」所謂『国樂』を創生せんと、国を挙げて躍起になっていた時代である。そんな中で、瀧は恩師である小山作之助に前途有望の学生也と絶大な後押しを受け、16歳で音楽学校予科生となり、その後勉強を重ねつつ天賦の才を発揮し、1901年(明治34年)、この曲が生まれる。瀧の成長は、日本に於ける西洋音楽の成長の歴史と共にあった訳である。そんな背景を鑑みるに、彼は敢えて「この音楽は西洋音楽である」という証拠を、その旋律に残したかったのではないかと思わざるを得ない。この作品にて一躍有名になる東京音楽学校生・瀧青年の、渾身の作と言っても過言ではなかろう。国内にまだ確固たる地盤もなかった時代に、本格的に音楽の勉強を始めて4・5年の、若干二十歳の青年が『西洋音楽で以て日本を表現する』事に成功した、稀有な作品ではないかと思う。
同じ日本人として、これほどの誉はないと改めて感じると共に、日本音楽界いや日本という国は、誠に惜しい人を亡くしたのである。数こそ少ないがその殆どが名曲と言える彼の残した作品を、是非とも皆に知っていただきたい。彼の作品を歌い続けていくことは、何の因果か彼の命日に生まれた自分の責務ではないかと、勝手に思っている今日この頃である。
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そんな訳で今年6月の演奏会は、瀧廉太郎特集を組んでおります。その前に4月にも演奏会があり(↓↓)、勿論『荒城月』聴き比べをしていただく予定。いつものトリビア談義も勿論ご用意しております。是非ご来場ください。
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