■もういいかい

―― もういぃかい

―― まぁだだよ



 通学路の途中にある広めの児童公園。コンクリートのカバの背中にランドセルを放り出し、陽が暮れるまで遊ぶのがぼくらの日課だった。ある時は色高オニ、ある時はグリコ、ある時は坊さんが屁をこいた。辺りが夕陽に満たされ、まだあまり役に立たない水銀灯が力なく灯される時間まで、日替わりメニューで飽きることなく遊び倒す。トリは決まって恒例の一大イベント、カクレンボ。隠れる場所は相場が決まっている。そこをいかにオニの目を眩ませ騙すかが、ぼくらの知恵の競い処だ。「まぁだだよ」と言いっ放し、そのまま帰宅してしまうこともあった。置き去りにされたオニはひたすら「もういぃかい」を繰り返し、挙句アホらしい虚しい気分で水銀灯に照らされながら一人とぼとぼと帰るハメになる。この作戦の首謀者は大抵ぼくだった。


  ―― もういぃかい

  ―― まぁだだよ


「チッ、早くしろよ、余計場所がバレちゃうじゃないか」

 同じ遣り取りが2・3度続き、ぼくは小さな声で愚痴った。ジャンケンで負けてめでたく本日のオニに選ばれた隣のクラスの宮本が、錆びかけた時計台に顔を伏せて数を読み上げている。対岸の植え込みで、ヤンキースとパ・リーグのどこかのキャップがうろうろしていた。ぼくは痺れを切らして、彼らの代りに明後日の方を向きながら言い放った。

「もういぃよ」

 一瞬、対岸から睨みの牽制球が飛んできて、その後公園全体が息を潜めた。

「もういぃよ、だ」

 カクレンボキングとして名高いぼくは、オニの背にもう一度挑発気味に呟いた。すぐ隣の茂みで同じクラスの山っちが、サバンナの肉食獣のように姿勢を低くしているのが見えた。ぼくらはスパイか何かになった気分で、じっと息を殺し、茂みにその小柄な身体を同化させた。

「みぃつけた」

 突然、ぼくのズボンを誰かが引っ張った。小さく息を呑んで振り返ると、おんなのこがひとり立っていた。保護者らしき人影はない。

「ばか、シッ! あっち行ってろ」

「かくれんぼしてるの?」

「見りゃ判るだろ! 見つかっちゃうじゃないか」

 ぼくはオニから一旦目を離し、おんなのこの手を払い退け、指を口の前に立てた。

「ねぇ、かくれんぼしてるの? ねぇ」

「うるさい!」

 ぼくは夢中でその子の口を塞いで抱え込み、大きな桜の根元に素早く身を屈めて背中を押し付けた。気付かれはしなかったかと、肩越しに植え込みの隙間から様子を窺う。運動神経の鈍い宮本が、時計台を離れて捜査を開始した。精一杯気配を殺し、視線だけでその行方を追う。ぼくはM.I.6になりきって、その緊張感に酔いしれた。

 対岸でパ・リーグが見つかった。次いでヤンキースも手を引かれて植え込みから出てきた。一瞬、おんなのこがもがいて地面を蹴ったが、捕り物劇でこっちの気配は揉み消された。

 まずはほっとして、慎重に息を深く長めに吐いた。その時初めて、自分の両腕にかなりの力が入っていたことに気付いた。その力に自分でもびっくりして慌てて腕を解いた。

 ぼくの胸元からおんなのこの身体がぐにゃりと崩れ落ちた。初め訳が判らず、吐いた息を吸うのも忘れていた。しばらくの間、自分の膝元に崩れている非日常をただじっと傍観していた。

 おもむろに自分の手を見た。左の掌が普段より赤い。腕には服のしわの型がくっきりと無数についている。おんなのこはひざ掛けのように、ぼくの足に覆い被さっている。額にはうっすらと汗が滲み、そこに細く少ない髪がへばり付いていた。喉元から小さな唸り声が漏れた。その音がぼくを現実に引き戻した。辺りを見回した ―― よし、誰も居ない。おんなのこが思い出したように息をした。小さく肩を揺すってみた。一瞬顔をしかめたような気がしたがまた動かなくなった。下敷きになった足が痺れてきた。ようやく僕は蕎麦殻の枕のような身体を抱き起こした。ぐらんと首が仰け反った。胸に耳を当ててみた。ぼくより少し速めの心臓の音が聞こえた。ぼくはほっとして、渇いていた喉に無理矢理唾を飲み込んだ。

「坂本くん見ーっけ」

 突然背後で大きな声がして、ぼくは「ひっ」と情けない声を小さく挙げた。抱き上げた身体を危うく落としそうになった。 恕突かれたように心臓が痛くなった。シャツの胸元をぐっしゃりと握りながら、恐る恐る振り返った。広場の遊具の裏から4組の坂本が連行されるのが見えた。瞬間、どっと汗が噴き出した。

「タカアキ、どうかした?」

 別の植え込みに隠れていた筈の山っちが、身を寄せてきて声を掛けた。彼の気配と足音に気付かなかったぼくは、呑み込んだ息の塊で窒息しそうになった。咄嗟に飛び退(すさ)り、少しだけ不自然に束ねられた下草を狭い背中で隠した。

「別! に、なんでもないよ」

 裏返った声でそう答えながら、山っちを促して一緒に垣根の隙間からオニの様子を窺った。宮本は迂回しながらも、少しずつこっちに的を絞り始めた。

「山っち、場所替えよ」

 ぼくは平静を装ったまま、山っちを連れて別の場所に移動した。タイミングよく何度かオニの死角に回り込み、そうしているうちに水銀灯がじわりと白み始めた。それを合図にカクレンボはタイムアップとなり、ぼくはまた連勝記録を更新した。捕まったやつらは口々に称えたり、愚痴ったりしながら、ぼくに新たな勝負を挑んだ。

 カバの背中からは植え込みの中がよく見えた。ぼくは一瞬どきっとしたが、誰も何も気付かなかった。「まぁだだよ」 ―― ぼくは呪文のように、誰にも聞こえない声で呟いた。

 それからもぼくらは毎日飽きずにカクレンボに興じ、中学を卒業するまでぼくはキングの座を 縦 (ほしいまま)にした。やがて、ぼくはその日の事を忘れた。


・・・・・・・・・・


 ―― もういぃかい


 うつらうつらと転寝をしていたぼくは、子供の頃の夢を見ていた。

 まるで不可抗力のように「もういぃよ」と言った直後、自分の寝言にビックリして飛び起きた。心臓が高鳴りして息が荒い。血の気が引いていた。冬なのに汗をびっしょりとかいている。温度計に目をやった。温度も湿度も大変エコだった。

 机の上には明後日提出のレポートが、途中で訳の判らないミミズを量産してそのまま放置されている。流石によだれは垂らしていないが、突っ伏していたせいで薄いレポート用紙が湿って波打っていた。

 ぼくは中途半端に浮いていた腰をやっと下ろした。一応部屋を見回し何もない事を確認した後、改めてレポートに向き合った。必須科目の基礎教育理論、お題は「幼少期における遊びと脳の発達について」。これを出さなければ今年の単位がちょっとだけヤバい。目もすっかり覚めたところで、まずは大量の痩せミミズを駆除し、そこまでの文章を読み返し再度構想を練る。転寝が利いたのか、今度はかなりペンのノリがいい。すらすらと文字が溢れてきて、すぐに何枚かの用紙が埋まった。よほど集中していたのか、体が固まり息苦しくなってきたので、ペンを置いて小さく伸びをした。

 ふと、背後に妙な違和感を覚え、ぼくは伸びをしたままそっと息を殺した。


 ―― みぃつけた


 ぼくは小さく息を呑んだ。聞き覚えのある声だった。背中が一瞬で寒くなった。耳元でざんざんと血流の音が響き、心臓がその存在を思い切り自己主張した。先刻の様に飛び上がることはしなかった、寧ろ出来ずにただ椅子に縛り付けられたように四肢が凍て付いていた。


 ―― みぃつけた、


 その声はもう一度はっきりと、動きを止めているぼくに向けられた。ぼくは固唾を呑み、硬直している両足に力を入れて、無理矢理椅子から身体を引き剥がした。何故か、行かなければならないと思った。長年封印していた記憶がものすごい勢いで蘇った。鉛筆を持っていた筈の手に、何か柔らかいものを握り締めていた感触がはっきりと残っていた。掌にじっとりと汗が滲んでいた。


 ―― みぃつけた。


 すぐ後ろに声は来た。意思と関係なく振り返ったぼくの全身から力が抜け、溶けた雪だるまのようにぼくはその場にへたり込んだ。意味の無い笑いが口から漏れた。おかしくもないのに大声で笑った。やがてその笑い声は涙声に変わっていった。下顎ががくがくと音を立てた。

 情けない格好のまま、ぼくは放心したように宙のただ一点を見据えていた。


 そこには




----- (c)紅蓮, 2009.10. / 2013 井上きりん -----




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