■原色のワルツ



履き慣れないパンプスで闊歩するその足の裏に、妙な音と凹凸を感じて彼女はぎこちなく立ち止まり、恐る恐るその足を上げた。

踏んづけたのは自分だけではないらしい。が、まだ真新しいその学生証には明らかに彼女の靴跡が一番クッキリと付いていた。彼女はそれを拾い上げ、自分のパンプスの跡をまじまじと見つめた。

「あっちゃぁ……」

表紙のみ厚紙のその小冊子は、何度も踏みつけられた重みで中のページがぐしゃぐしゃに折れ曲がり、所々破れたりもしていたが、身分証明の部分は幸いにして難を逃れていた。

そこには端整な顔立ちの青年の写真と、名前・学部名・学籍番号が記されていた。どうやら自分と同じ学年、いや、同じ学部の学生らしい。

「ハチヤミノル? 農学部に居たっけ、こんなヤツ。ま、いーや。次の授業って必須科だし、せっかくだから渡してあげよっと」

彼女はくっきりと残っている自分の靴跡をティッシュで丹念に拭きとり、そのままハンカチに包んでカバンのポケットに押し込んだ。


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端整な顔立ちのその青年は、すぐに見つかった。

彼女はパタパタと高い靴音を響かせ、広い講義室の後ろの方の席に独りで座っている青年に声を掛けた。

「ね、あんた、ハチヤミノル?」

「……いや」

「え、違うの? おっかしいなぁ」

「そうだけど違う。ミノルじゃなくて、ユタカ」

「あ、『穣』って書いてユタカって読むんだ。へぇ」

唐突に声を掛けられ少々憮然とする青年に構わず、彼女は独りで納得し、そのまま彼の隣に座った。

「で、ナニ? 何で僕の名前を」

「あぁ! はいコレ」

彼女はカバンからハンカチの包みを取り出し、彼の目の前に開いて差し出した。青年は少しの間、ハンカチに乗った憐れな姿の小冊子を見つめていた。

「ごめん。あたし、踏んじゃった」

青年は彼女を一瞥し、黙って学生証を手に取ってぱらぱらと中を見た後、シャツの胸ポケットやズボンのポケットなどを触って「あぁ」と小さく言った。無愛想な感じはするが、特に機嫌が悪い訳でも人嫌いな訳でもなさそうだ。寧ろ彼女の行動に少々面食らっているだけの、大人しい学生のようだった。

「拾ってくれたの?」

「まぁ、一応。踏んじゃったから」

「いいよ。落とした方が悪い。ありがと」

「こっちこそ、ゴメン」

「ところで君、誰?」

「あー! ごめん」

「よく謝るね、君」

「あたし、小林朝美。美しい朝でアサミ」

「―― そ」

「そ、って……そ、ってあのさ、もっと他に」

「始まるよ」

新学期の新たな出会いを期待していた彼女は、堰き止められた濁流の渦のようにただぐるぐるとその場で泡を食うしかなかった。朝美は口を尖らせて彼の横顔を見た。その視線に一切の注意を払うことなく、蜂谷穣(はちやゆたか)という青年はただ黙々と教壇の方を向いている。

―― ナニよ、結構いい顔してるのに、澄ましちゃってさ……ぶっきらぼうで、愛想が無くて。同じコースだって言ったら普通、親近感とか妙なテンションとかなんかこう……あるでしょ、なんか……もぉ、余計ムカつく。

「あのさぁ」

「講義中」

周りに座っていた数名の学生が、チラッと彼女を見たが、彼女は構わず穣に挑んだ。だがその度に穣本人に一蹴されて、敢無く彼女は黙るしかなかった。


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高校生物の延長のような初講義が終わり、学生達は皆蜘蛛の子を散らすように広い講義室から一瞬で居なくなった。穣がマイペースに荷物を片付ける間、朝美はずっと待っていた。そして彼の動作がひと段落着いたその一瞬のスキを狙って畳み掛けた。

「あのさ、あんたドコ出身? 都内? 高校は?」

穣は彼女を一瞥し、今度こそそのまま無視しようと一旦は席を立ちかけたが、根負けしたのかその足を止め、小さな声で一言だけ応えた。

「のはら」

「野原? 聞かない名前だなぁ」

彼女は携帯をいじりはじめた。

「あった野原。えーと、愛知県豊田市野原町。ココ?」

「さぁ。そうかな」

「他にもあったよ。埼玉県熊谷市野原。こっち?」

「さぁ。そうかも」

「あのさ、おちょくってんの?」

「さぁ、どうかな」

「ほんっとアンタって、自分の事なにも話さないね」

「君だって、自分の事話してないだろ?」

朝美はムッとしながら開いていた携帯を片手で閉じ、構わず歩き出した穣の背中に小さく舌を出しながら、その後ろをちゃっかりと着いて歩いた。そんな彼女を振り向きもせず、穣は独り言のように言った。

「一緒に来る?」

「え、何処に?」

「のはら」

「野原? 今から?」

「今から」

唐突な彼の言葉に少々面食らいながら、それでも朝美は好奇心に逸り、彼の後をそのまま着いて行った。講義棟や研究棟が立ち並ぶメインキャンパスを、朝美はこの時初めて抜けた。そこには、農学部をメインとする本大学の、もう一つのメインキャンパスとも言える広大な実習地が広がっていた。

手前に整然と並ぶビニールハウス。それぞれに栽培している野菜の名前と研究室名が書かれた札が立っている。その横にはきちんと地均しされた田んぼが、学生達の手による田植えの季節を待っている。

れんげ咲く畦道を抜けると、今度は牧草地が広がり、こじんまりとした禽舎からは牛の声が聞こえてきた。

「のどか~~。絵本みたい。こんな場所あるって知らなかった」

「ここ、農大だよ。学校案内、読まずに受けたの?」

春風が吹く青空の下、呑気に伸びをする朝美はイタイところを突かれ、一瞬固まった。だがそんな彼女をまたも置いてきぼりにして、穣はその先に歩を進めた。

「まだ行くの?」

「あそこ」

穣がしなやかな指をツンと伸ばして、遥か前方を指した。そこは、ぼんやりと黄色い靄(もや)が掛かって見えた。春霞なのか、黄砂か、あるいは砂埃か ―― 光化学スモッグは、無いだろう ―― とにかく霞んでいてはっきりとした景色は判らない。

「この大学に来るのに、その靴はよした方がいい。そもそも君に似合ってない」

「余計なお世話です」

朝美は反論の言葉を出しかけて、それまでの自分の行動を思い出し、慌てて胸の奥に押し込んだ。その様子を、穣はクスリと小さく笑いながら流し見て、そしてまたずんずんと先を歩いた。身長の差はそれ程無い。脚の長さもそんなに違わない、筈。なのに彼はまるで流れるように、あっという間に離れてしまう。朝美は履き慣れないパンプスを余計に気にしながら、もつれる足で小走りに着いて行った。

しばらくして、穣が音も無く立ち止まった。朝美は息を整えながら、その視線を追って見た。

「昔、あそこによく似た場所に住んでた」

そこは一面、吸い込まれるような黄色の絨毯だった。農学部の実習農園の一部だろう。一面の菜の花……いや、あれは確かに、一面のヒマワリ。それも一般的なあの、背丈を越える堂々とした大きなヒマワリではなく、恐らくは西洋ヒマワリとかいう小型の品種だろう。人の腰ほどの華奢な茎で不安定に、それでも一斉に太陽に顔を向け、精一杯背伸びしながら、静かに風に揺られている。

その風景をしばらくぼんやりと見つめて黙っていた穣は、小さな声でようやく途切れ途切れに話し始めた。その横顔を朝美はまるで盗み見るようにしながら、静かに耳を傾けた。何故か言い知れぬ不安と緊張を、朝美は一瞬感じたような気がした。

「僕たちは毎朝、そのヒマワリ畑で遊んだ。たくさんの仲間と一緒に。ただヒマワリ畑を飛び回るだけの毎日だったけど、僕たちは幸せだった。それがある日、僕たちの居たところが火事になって、母屋も、小屋も、大好きだったヒマワリ畑も焼けてしまった。僕の仲間たちはみんな逃げ遅れて、気付いたら僕だけが残ってた。朝も昼も夜も、僕は独りでびーびー泣いた。僕が覚えてるのは、それだけ」

穏やかな声が、また途切れた。朝美は何も言わなかった。いや、何も言えなかった。朝美のボキャブラリィに、彼の言葉に相応しい相槌の言葉は見つからなかった。その代りにただ黙って眼を閉じ、彼の隣で静かに空を見上げ、そして大きく息を吸い込んだ。


     見つけた。僕のひまわり。
     今ひとつだけ確かな事がある。
     それは ――


「ん? ……ふぇ? え……えぇっ?!」

振り返った朝美の目の前には、誰も居なかった。柔らかい晄(ひかり)と静かな風が、呆然と立ち木のように立ち尽くす朝美の周りを取り囲み、踊っているだけだった。

その次の日から、彼の姿を見ることは二度となかった。


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「 ―― で、まだやってるの? 人探し……あ、ハチ探しだっけ」

あの翌日から、朝美は手当たり次第『蜂谷穣(はちやゆたか)』について訊いて回った。まずは同じ学部の同級生、そして学部の先輩や院生。勿論、あの日の講座を取っている他の学部の学生達にも、しらみつぶしに1人ずつ聞いて回った。だがその日の事を覚えている学生誰もが口を揃えて、朝美は講義室の端の方に独りで座っていた、と答えるばかりだった。

挙句の果てには大学の学生課にも問い合わせた。同じ学部生とは言え簡単に個人情報を教えてくれるとは思っていなかったが、それでも何か手掛かりが欲しかった。自分の記憶の確証が欲しかった。手を替え品を替え相手を替えて、総当たり戦で根気よく臨むこと一月、学生課の職員達にすっかり顔を覚えられたものの結果は全戦全敗。それでも朝美は諦めなかった。 ―― だって、居たんだもん。

同じ高校から進学してきた幼馴染の田之倉裕司(たのくらゆうじ)は、キャンパス内で会う度に彼女の不思議な体験を聞かされ、その度に半ばからかって返した。

「あったり前でしょ! それよかタノっち、ほんっとに知らない? 蜂谷君の事。背はあんたよかちょっと低めで、顔立ちもあんたよりずっと端整で、んでもって声が小さくて」

「端整な顔立ちじゃなくて悪かったな。何回も聞いたし何回も言った。もういい加減耳タコ」

「でも! あたし本当にその人と喋ったんだもん。その人の学生証踏んじゃって」

「そのウラ取ってんでしょ。もう解ったから。コロンボ気分だな」

「本当なんだって! 真面目に聞いてよ。それで、その人と一緒に裏のヒマワリ畑に行ったの!」

「ハイハイ、その話ももう何回も聞きました。それさ、5月の連休明けの話だろ? んな時にヒマワリなんて咲いてる訳ないし、そもそも、ヒマワリ畑なんてウチの大学の敷地に ―― 」

「あったの! ぜーーったいに。すっごく綺麗だったんだから。すっごく綺麗で、すっごく優しくて、すっごくあったかくて……あったんだもん……」

駄々をこねる子供のように人目も憚らずベソをかいて俯いた朝美の姿に面食らった田之倉は、それでも長年の付き合いの中対処の仕方を心得ているように、小さく溜め息をつきながらカバンの中から小さな包みを取り出した。

「じゃぁさ、はい、これ」

「ナニよ ―― 」

口を突き出して本当に子供のようにベソをかき、朝美はしゃくり上げながら差し出された小さな箱を開けた。中にはヒマワリに寄り添うミツバチのモチーフが散りばめられた、シルバーのチェーンが入っていた。

「好きなんだろ、ヒマワリ」

「タノっち、どしたの?」

「ぃや、別に。泣いてる子供には土産で釣るのが一番だ」

「……うるさい。それに、こんなの貰ったら、いつまでも蜂谷君の事忘れられなくなるじゃない!」

「んーなんかその言い方、ちょっと誤解招きそうだけどさぁ。ま、いーや。忘れる必要ないんじゃないの?」

「え?」

「そいつが居たか居なかったかは俺には判らないけどさ、それをあさみちゃんが忘れちまったら、そいつはホントにこの世に居なかった事になっちまう。そいつにとってあさみちゃんは、やっと見つけた『存在の証明』だったんじゃないかな。たとえそいつが何かの霊とか妖(あやかし)の類だったとしてもさ。それにそいつ、もしかしてすんげぇ恥ずかしがりなんじゃない? あんまりあさみちゃんがムキになって探すもんだから、出て来れなくなってんじゃねぇ?」

「……タノっちってさ、小さい頃、幽霊とかファンタジーとか、信じなかったんじゃなかった?」

「大人になったんだよ。そーゆーあさみちゃんこそ、小さい頃は俺の事『ゆーちゃん』なんて呼んでたくせに、何時から『タノっち』になったんだよ。幼なじみがそっけねーよな」

「大人になったの!」

朝美の涙はもう乾いていた。照れ隠しにおどけながら、朝美はわざと胸を張ってツンとそっぽを向いた。そしてふたりはけらけらと笑った。

「大人になるってさ、何かを置いてきぼりにすることだとしたら、なんか嫌だな」

「あさみちゃんは、何か置いてきた?」

「んー、わかんない」

「ま、蜂野郎のことは置いてきぼりにしてやるなよ。多分、お前の記憶だけがそいつの居場所なんだろうからさ」

「うん、そうする。ありがと」

そう言いながら朝美はチェーンを腕に巻いてみた。金属の冷たい感触が優しく伝わった。

きらきらと、朝美の細い手首の周りで小さなミツバチが踊っている。そのまま陽に翳すと、真綿のようなふんわりとした晄を浴びた銀色のミツバチが、翠と黄色のコントラストに溶け込んだ。

「でも、ほんっとーに居たんだからね! あたし、ちゃんと喋ったんだから!」

「はいはい。ところでさ。そろそろ次の講義だろ、行かなくていーの?」

「言われなくても行きます!」

キャンパスに続く長閑な農道を、ふたりははしゃぎながら駆け出した。その足元でずっと、小さな小さなヒメミツバチが飛んでいたことに、彼等は気付いていない。



----- (c)紅蓮, 2009.07. / 2013 井上きりん -----




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