■夏の終わり

 

その日も僕は、いつものように部活の帰りを蒔野(ときの)と並んで、うだるアスファルトの道を歩いていた。特に何を話すでもないが、帰る方向が一緒なのと、何故かいつも自然と一緒にいた。他の部員とあまり話をしない僕も、蒔野とは気が合った。

この地域一帯は元々湿地だったのを、埋め立てて舗装して出来たらしい。だから必要以上に湿度が高く、特に今年の夏は、部活帰りでなくてもこの道を歩くと息が上がりそうになる。

僕はふと足を止めた。車道を挟んだ向かい側で、コンビニの袋をぶら下げたしおれたオヤジが、何かを蹴っては休み、また蹴りながら歩いていた。その足元で、耳障りな羽音がしている。

「どした真琴、大丈夫か?」

「平気」

だらだらと数歩行き過ぎていた蒔野が振り返り、気の抜けた声で言った。そのまま戻りつつ並んだ僕らは、しばらくオヤジを眺めていた。

「セミか。好きなの?」

「別に。ただ可哀想な事するなと思って」

「そうか?」

「だって、あれってもう死にかかってるだろうに、あんなことしなくても」

「案外、ひっくり返って元に戻れなくなって暴れてるだけかもよ。カメみたくさ」

「そうなの?」

「さぁ。オレ、セミじゃないから解らねー」

だいぶ日が傾いたとは言え、日中の熱をたっぷりと抱き込んだアスファルトは、じっとしていると密度の濃い蒸せるような空気が上がってきて息が詰まってくる。電信柱で出来た細長い日陰を見つけて反射的に身を寄せ、蒔野はシャツのボタンを2つ緩めて、吹いてもいない風を送り込むように何度かはためかせた。

「にしてもあっついなー。たまんねー」

「でもやっぱり何だか、可哀想だよ」

「あのオッサン、実は助けてやってたりして」

「まさか」

その時、それまでずっとオヤジの爪先でひっくり返ってもがいていたセミが、何かを思い出したように勢い余って舞い上がった。そのまますぐ上の蛍光灯にカチカチと何度か体当たりして、慌てたように何処かに飛んでいった。

「ほぉら、アタリ」

「ホントだ。良かった」

「そうか?」

「え」

「案外、俺らと一緒なのかもよ」

「なにが?」

長い右手をゆらりと振って、蒔野はそのまま背を向けて歩き出した。

僕はほんの少しの間、その背中がオレンジ色の空気の中に滲んでいくのを見ていた。そして小走りについていって、また2人並んで歩いた。

特に何も話はしなかった。


■・■・■・■


今年の夏は殊の外気温が高く、いくつかの部活でも熱中症の生徒が出て、休部しているところが多かった。まだ誰も病人を出していない陸上部だけがグラウンドを占拠して、過疎の学校のようだった。

部長の蒔野(ときの)が部員を従えて走っている。最終ラップの合図の鐘を僕が鳴らすのとほぼ同時に、目の前を蒔野が横切った。スポーツ進学の決まっている3年生2人を含む17人全員が通り過ぎた直後、僕の視界がぼやけた。

「久保崎先輩!」

1年生の女子マネージャーが、僕の名前を呼びながら走ってきた。グラウンドを走っていたはずの部員たちも、いつの間にか僕を取り囲み、覗き込んでいた。

「おいおい、お前が第1号かよ」

ざわざわと不明瞭な雑音の後ろから、ハッキリとした蒔野の声がした。

「なにが?」

「熱中症。多分な ―― おい、冷えたボトル4本とバスタオル持ってこい!」

数名の女子マネージャーが、よく訓練された自衛隊員のように、歯切れのいい返事と共に駆け出した。

「こいつを部室に運んでくる。みんなはこのまま少し休憩を取った後、副部長の指示に従ってくれ」

蒔野はそこに居た全員にそう告げ、僕の身体をゆっくりと起こし、腕を肩に回した。支えられて歩き出そうとしたもののまた目が回り、僕は蒔野にぶら下がるような格好になった。

「しゃーねーな」

そう頭上でだるそうな声がして、僕の身体がふわりと浮いた。

「降ろしてよ、カッコ悪い」

「うるせー。ヘロヘロ野郎が」

蒔野はそのまま僕を部室まで連れて行き、ベンチに寝かせた。ロッカーの陰になって、風はよく通るが陽は当たらない。コンクリートの床から、ひんやりした空気が上がってくる。

戸口で呼ぶ声がして、蒔野が立ち上がった。二言三言話す声が聞こえ、さっき自分が指示した物が入ったカゴを手に、すぐに戻ってきた蒔野は、首に掛けていたタオルをそのうちの1本で濡らして僕の額に乗せ、残りを脇と首筋に挟んでくれた。

「ちょっとの間、そうしてろ」

蒔野は間延びした声でそう言うと、イスを持ってきて、僕の足元に座った。


■・■・■・■


目が覚めて時計を見ると、あれから20分も経っていなかった。まだ少し身体が重い感じはするが、気分は悪くない。

「まだいたの」

「おう」

僕はゆっくり身体を起こした。脇に挟んでいたミネラルウォーターは、僕の体温を吸ってすっかり生温くなっていた。枕元に、タオルを濡らしたときの水が少し残っていた。僕はそれを一気に飲み干して一息ついた。蒔野(ときの)はそれを見るでもなく、顔を背けるでもなく、足元の椅子に座って相変わらずぼうっとしていた。

「康平、ちょっと肩貸して」

「おう」

地に足が着いているのを確認して、僕はゆっくりと立ち上がった。そのまま蒔野に肩を借りながらトイレに向かう。入り口でスリッパに履き替え、彼を小さく制して、個室に入った。

「吐いた?」

「いや」

蒔野はしばらく僕の背中を見ていた。やがて視線を鏡に移して、僕らは鏡越しに向き合った。

「真琴」

「ん?」

「お前さ」

蒔野はそのまま言葉を切って、作り物のような顔で僕をまっすぐに見た。僕も同じように、蒔野の顔を見た。

「なに?」

「もしかして、女?」

「―― まぁね」

「いつから」

「ずっとだよ」

「名前は? その真琴、っての」

「本名」

「紛らわしいな」

「そうだね」

蒔野はそこでやっと、やれやれと言いたげに表情を崩した。僕はどんな顔をすればいいか思いつかなかったので、とりあへず出したままの水道の水に、頭を突っ込んだ。

「怒ってる?」

「なんで」

「じゃぁ、驚いた?」

「いや」

「そう。知った事で、何か変わる?」

「なにが」

「別に」

水浸しの頭を上げた時、少しふらついた僕の肩を、蒔野がバスタオルをかぶせながら支えてくれた。

「お前、ヘロヘロじゃん。もう少し横になってた方がよくねーか?」

「平気だよ。さっきよりだいぶマシ」

蒔野は苦笑して、また僕の腕を肩に回してゆっくり歩き出した。

「あのね康平」

「言わねーよ」

キョトンとして見上げる僕を無視して、蒔野は仏頂面のまま続けた。

「言って、何か変わるのか?」

「…………クスッ」

僕はこらえきれなくなって、蒔野にぶら下がったまま笑い出した。

「何だよ、今度は急に笑い出しやがって」

蒔野は呆れていたが、僕は血の気が引いて倒れそうになるくらい、息つく間もなく笑い続けた。そんな僕を見て、今度は蒔野が目の前に回りこんで、大袈裟に両肩を揺すりながら言った。

「お前、とうとう脳ミソ溶けてイカレちまったか?!」

「だって、個性のない会話だなと思って」

蒔野はあからさまに変な顔をした。

「どーいたしまして」

そう言って蒔野は、僕の頭を抱え込み、その大きな手で髪をくしゃくしゃに掻き回した。誰もいない夏休みのローカで、僕たちのはしゃぐ声だけが響いた。

「ねぇ康平」

「まだなんかあんのか?」

「これってさ、男同士の友情ってヤツ?」

「アホ」

僕は笑った。

蒔野も笑った。



------------ (c)紅蓮・井上きりん 2008.08 / 2010改 ------------




どうも、作者の井上きりんです。

ここに登場する真琴は、会話では自分が「女か」と訊かれ肯定するような返事をしていますが勿論よく考えると矛盾しています。これは真琴なりの照れ隠しというか流れで肯定してみたというか、そんなところでしょうか。

実際、彼の設定は「SRY遺伝子突然変異型男性(医学的名称ではありません)」という、正真正銘の男性です。第47染色体(性決定染色体)のYが、遺伝子情報的に完全な男性(XY)の機能を有したまま、Yの足の部分がXに見えるように形だけ分裂してしまった状態のようです。

前述のように機能はほぼ完全にXYのままのようなので、気付かずに一生を終える人はたくさん居ると思われます。なので作品を描いた2009年時点で実際の発生率や詳細なデータはさほど取れていないしこれからも取れないでしょう。同じことが女性でも起こりえるようです(Xの下がくっ付いてYに見えるXX)。こういった事例を参考にしたのが今回の真琴で、GIDのぼくとはその遺伝子的な背景は異なりますが、問題はそこではなく、当事者たちが何を本質と捕らえ、何を信念にして生きているか、を描きたかったのです。

だから康平が真琴の身体つき云々で気付いたというのも厳密に言えば有り得ないと思いますが、彼には彼なりの直感というか、何かしらそういうものを持っているイイ奴なのです。

ぼくの一番好きな場面 ――

 「そう。知った事で、何か変わる?」
 「なにが」
 「別に」

以上、あとがきのような註釈でした。


2013/12/31 井上きりん



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