■陽炎 ~かげろう~
あの時、彼女は何を言いたかったんだろう ――
夕陽がバックドラフトのようにビルの隙間からはみ出している。スポーツドリンクを片手に、僕は校門前の階段に腰を下ろした。
「よぉ高原、早かったな」
首にタオルを引っ掛けて、少し遅れて遠野が出て来た。
「今上がったところ」
僕は隣に座った遠野にスポーツドリンクを手渡した。彼女は残りの半分を一気に喉に流し込んだ。
「今度のインハイの代表、結果聞いた?」
「聞いた」
「受かればインハイ、漏れれば引退。このまま水泳辞めちゃおっかな」
「なんでよ。今まで頑張ってきたんだから、わざわざ辞める事ないんじゃない?」
彼女はまだ滴の落ちる前髪を無造作に掻き揚げた。風に塩素のにおいが混ざった。
「水泳一筋13年、そろそろ潮時かぁ?」
「潮時には早いと思うけど」
「引き際も肝心でしょ。あー、私の人生なんだったんだよぅ」
「遠野はいつも大袈裟だなぁ」
僕は自分のタオルで額の汗を拭った。正面から焼き付けるように届く夕陽に、一瞬目の奥が痛くなった。
「高原は人生の目標みたいなのってあるの? 理想とか」
「そうだな、絵画が描き手の人生を反映するというなら、僕の人生はさしずめ抽象画だ」
「また唐突に、漠然と捕え所の無い事を言うねぇあんたは」
遠野はスポーツドリンクを、喉を鳴らして一口あおった。
「ねぇ、生まれ変われるとしたら、また男に生まれたい?」
「いや」
「それじゃ女?」
「それは遠慮しとく」
「じゃあ何」
「別に」
「あんたの事だから、また自分自身に、とか言うんだろ」
「いや、それもないね。だってこの体も命も人生だって、本質は一度キリだよ。僕は僕、それだけ」
「悟り開いた坊さんみたいな事言うんだな」
「例え悟りを開いて輪廻を信じたとしても、この僕はこの僕であり、一度しか存在しない唯一のものである事に変わりはない。輪廻なんてただの気休めだよ」
「気休めか ―― 気休めでもイィよ。もし生まれ変われるとしたら、私は男に生まれたいな」
僕は、遠野の顔を横目に見た。遠野は夕陽を真っ直ぐに見つめながら言った。
「私さ、小さい頃から男に生まれたかったんだ」
「ふぅん」
「兄貴が一人いてね、いつも一緒に居る友達がいたんだ。二人見てるとなんだか特別な絆があるような気がして、自分の方が血が繋がってるのに入れなかった」
「ふぅん」
「高原にもそーゆー友達、いる?」
「どうだろ」
「私が男だったらさ、高原とそんな風になれたのかなって、時々思うんだ」
「今だって、似たようなものじゃない」
遠野は答えずに、残っていたスポーツドリンクを一気に飲み干して、勢いよく立ち上がった。僕は座ったまま遠野に聞いた。
「今、お兄さんは?」
「―― 死んだ」
「え」
「今年、初盆なんだ。ってことで明日、部活休むから。じゃ!」
そう言って遠野は真っ直ぐに、まだ燻り続けている陽(ひ)の海に飛び込んでいった。
----- (c)紅蓮, 2008.08. / 2013 井上きりん -----
0コメント